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今川氏が開いた駿府の「今宿」 いちばんの賑わいの地が人宿町だった。

この人に聞く

magazine Vol.4

江戸時代から代々ここに住んでいるという
村田雄剛さんに、まちの発祥の由来をお聞きした。
語り手/歴史愛好家 村田雄剛さん

 「今川氏の初期、現在の静岡市街地“府中”の大半は安倍川の河原でした。そう言われてもピントこないでしょうけどね。(笑)」。
 その頃の府中は政治の拠点であったものの、場所は駿府城跡の狭い範囲に限られており、旅人を泊める宿も少なかったという。しかし、今川中期になってくるとしだいに安倍川の河原も安全・安心な場所となって、町場も広がり、中心部を外れた場所に脇宿が増えるようになってきた。そのため今川氏は政治的な秘密の保守や商人の統制のため新たに『今宿』という宿場を開き、まちが一変する。1566年には『今宿法度』が定められ、旅人はここへ泊まるようになった。
 「人宿町は『今宿』の中でも安倍川を渡り府中に入って最初のにぎわいの地でありました。江戸時代に入ると家康の命令で長崎貿易で得た利益の一部を駿府に配分されることとなり、そのための「長崎糸割符会所」が人宿町に作られ、二代将軍秀忠や三代将軍家光の重鎮の家臣が宿泊した記録も残されています」。
 なんとも凄い方々が当時の人宿町を行き来していたことになる。その後、参勤交代制が始まると宿屋は伝馬町に移り、人宿町は職人のまちとして発展していく。
 「職人のまちの印象が強いですが、もっと歴史を遡って、実は今川氏の頃から栄えていたまちだと知ってもらえると嬉しいですね」。江戸初期の賑わいを思い浮かべてのまち歩きも面白そうだ。

※画像は「駿府町数並び家数人数覚帳」静岡県立中央図書館所蔵より

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