かつて多くの寺院が集まり「寺町」と呼ばれた一角に、
今も残る「常住山感應寺」の住職にお話を伺った。
家康が創った防壁
「大鋸町、駿河町から常磐公園にかけての一帯に『寺町』はあってね」。寺町をよく知る、九十八歳の住職はそう話し始め、記憶を頼りに寺が建ち並ぶ当時の地図を描いてくれた。寺町は家康公が行った城下町整備によって生まれたエリアで、敵の侵入を阻止するためこの地に寺を集め、墓を並べて西の防壁とした。寺町は1~4丁目まであり、隣の西寺町、大鋸町、常慶町あたりに十数の寺院があった。感應寺もその一つで、最も大きな寺だったそうだ。
芝居見物をした
〜若竹座〜
「寺町の並びには若竹座があって、チャンバラを見た記憶があるなあ」と住職。若竹座は明治から大正、昭和初期にかけて賑わった芝居小屋で、小学低学年の時に日蓮上人の生涯を描いた芝居がかかったこともあるという。当時、寺町周辺には菓子店が多く、おこしやせんべいなどをよく買ったそうだ。若竹座のそばには甘納豆店があり、甘納豆を手に芝居を楽しむ人もいたという。その後寺町は昭和15年の静岡大火、昭和20年の戦火によって焼失し、昭和22~23年の静岡市の都市計画によって多くの寺がこの地から長沼に移転している。
家康公ゆかりの
〜放生の池〜
「感應寺」の前身は852年に富士市に創立された天台宗の寺で感應山瀧泉寺と称し、鎌倉時代に日蓮宗に改宗。その後、駿府に移り寺号を「常住山感應寺」に変えている。家康公は折りにふれて感應寺を参拝し、自ら場所を選び境内に「放生の池」を掘らせている。側室・養珠院お万の方も頻繁に参拝され、家康公の百ヶ日には、池に魚を放ち放生会を行っている。池はその後縮小されたが今も史跡として残る。
常住山感應寺
文明18年(1486年)駿府に移し、常住山感應寺と改称。その後、浅間神社再建の時天正年間(1573〜91年)家康の政策により現地に移転。旧寺町の発祥となる
葵区駒形通1丁目5番5号
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