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Feature

「江戸から平成へ」

ヒトヤドヒストリー

magazine Vol.1

東海道を行く、商人で賑わった「人宿町」

 新しいビルやおしゃれなショップが続々誕生している「人宿町」だが、この地名は江戸時代からあったようで、駿府を訪れた商人が泊まる宿屋があったことからそう呼ばれていたようだ。
 隣町「七間町」の名の由来は、今川時代からの豪商が七座(七軒)の長として宅地を賜ったためとも、道路が七間(約14メートル)あったことからとも言われている。七間町の中心を東海道が通り、竹細工やろうそくなどを商う店が並んでいたという。「梅屋町」の名は、「梅屋」という本陣(宿屋)があったからことから。いずれも徳川家康がおこなった町割りによって整備された「駿府九十六ヶ町」の一つに数えられている歴史ある町で、この辺りは宿場町として人の往来が絶えない賑やかなエリアだったようだ。ちなみに、古代の安倍の市があったところではないかともいわれていて、となると、はるか昔からの繁華街だったことになる。

「梅屋町」で、由井正雪の乱、勃発!

「梅屋」といえば、歴史に残る大きな事件が、ここで起きている。時は四代将軍・家綱の頃。由比正雪らによって、江戸幕府を倒す計画が企てられ、正雪は駿府に入った。その際滞在したのが「梅屋」だ。しかし計画は失敗に終 わり、正雪らは奉行所の捕り方に包囲され、自ら命を絶っている。これにより、 宿・本陣が全て伝馬町へと移転されることになる。今回お話を伺った 「駿府九十六ヶ町」の文化を後世に残そうと活動をしている「シズオカ文化クラブ」の代表幹事・石川たか子さんによると、石川さんのご先祖は当時の駿府町奉行所(全国に4箇所しかなかった)の一人だったかもしれないそうだ。

人宿ストリートをバスが走っていた!?

 歴史ある人宿町界隈も時代と共に様変わりを繰り返したが、戦後の焼け野原から復興した昭和30〜50年代の人宿町は、令和の今を上回る賑わいを見せていたという。現在の「人情ストリート」は、当時もメイン通りで、紳士服店、 化粧品店、生地屋といったファッションの店から、魚屋、八百屋、豆腐屋、氷屋といった日々の暮らしを支える店、寿司店、喫茶店、居酒屋、バー・スナックといった飲食店まで、様々な店が入り交ざった活気あふれるエリアだったそうだ。当時は人情ストリートをバスが走り、番町、田町あたりから、人宿町、七間町へ、買い物や映画、外食を楽しむために、多くの人が訪れたという。

映画館の撤退を経て、「NEW人宿町」へ

 昭和30年代以降のお話を伺った人宿町二丁目の町内会、婦人会の方々によると、当時は人宿町でなんでも揃い、遊びに行くのは七間町。映画館はもちろん、プラネタリウムやアイススケート場もあり、レストランも喫茶店も、ファッションの店も流行の先端を行くおしゃれな店ばかりで、呉服町よりもはるかに賑わっていたという。しかし、いつしか繁華街の中心は駅周辺へと動き、平成には七間町から映画館が撤退。七間町の賑わいも衰えを見せ、人宿町ものれんをおろす店が増えてきた。そんななか動き始めたのが「OMACHI 創造計画」だ。人宿町界隈に新しい店が次々生まれ、今まさに人が集まり始めている。古くて新しい「NEW 人宿町」がこの先どう進化していくのか、楽しみだ。

※写真は人宿町2丁目町内会の皆さん

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